2014年10月11日土曜日

上信電鉄に沿って・天井川   

上信電鉄沿いに
  
   
天井川(てんじょうがわ)
    川底が田んぼより高い!!   
 
  
 天井川・・・昔は教科書にも載っていました。今はどうなのかな。
  川底がまわりの土地より高い・・・そんな場所が、高崎ー下仁田をむすんでいる上信電鉄の線路からほど近い場所にあります。

 下の写真ではよくわからないかなあ・・・ 右側の田んぼが、コンクリート張りの川底より少し低いのですが・・・     現地に行けば すぐに納得できます。
 
 
     
   


左写真のような階段を上っていくと、川が流れているわけです。
         (太夫沢川)

場所は、上信電鉄根小屋駅付近、高崎市ですね。上信電鉄が烏川を渡る橋の近くです。

 ここは高崎市の裏山・大きな白衣観音の立つ丘陵から続く里山の裾野です。丘陵からは、烏川に向けて、小さな川(沢)が何本も流れています。
これらの川が天井川になっているわけです。
下の図をごらん下さい。
                                                作図 堀越武男さん
 
「地獄沢」という名前も見られます。川底が高いわけで、氾濫して、住人に辛い思いをさせたのかも・・・・隣には「薬師沢」もあって、薬師如来のご威光を求めたのかもしれないなどと、想像がはたらきます。            
少し昔、井戸沢川は道の上を流れていました。
写真をごらん下さい。道路の上を横切っている「出すなスピード」と書いてあるところは、水路になっていて、川が流れていました。
まさに 天井川
    
       写真 自然との出会い
              上毛新聞社
 

今は改修されて、川は道路の下を流れていて、ごく普通の風景です。
とはいえ、この付近の道路を車で走ると、沢を横切るときには、道が少し盛り上がります。ほんのちょっとの起伏ではありますが、何度も登ったり降りたり。
この道を通りかかることがあったら、ちょっと思いだしていただけたらいかがでしょう。


この天井川について書かれた解説をのせます。上にのせた地図をご覧いただいて、お読みいただけたらと思います。    下仁田自然学校運営委員の堀越武男さんの書かれたものです。
  
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 根小屋(ねごや)駅から山名(やまな)駅までの間には、烏川右岸の低地と南西の丘陵地との間に、丘陵から流れだす小河川によって、いくつもの扇状地が作られています。小河川は根小屋七沢と呼ばれ、北西(高崎より)から中ツ沢川、金井沢、太夫沢、井戸沢、地獄沢、薬師沢、および柳沢川の七沢です。
 この付近の丘陵は、比高は100mあまりで、あまり急峻ではありませんが、地質は第三紀の板鼻層の砂岩や礫岩および第四紀の凝灰角礫岩で、固結度が低いため、崩壊しやすく、台風の大雨や夏の夕立の雨などで、多量の土砂を流し出します。そのため、各河川はその出口付近に小さな扇状地を作っています。
 この地域は、古代より開けた土地で、小河川は流路が固定され、氾濫のたびに流路両側に堤防が積み上げられ、周囲の田畑より川底の方が高くなった、いわゆる”天井川”になっています。

 根小屋駅から県道へ出たところの川が中ツ沢川です。踏切をわたり、山名方向へ行くと、金井沢の橋を渡ります。橋の部分が高くなっていることに気づくでしょう。
 城山町入り口の信号をすぎたところで高くなっている橋が太夫沢川の橋です。太夫沢川と次の井戸沢川が、最も川底が高くなっています。県道より下流部のたんぼ道の橋まで行くと、もっとよく見られます。井戸沢川は現在改修されていますが、かつては水路が県道の上を通っていました。
次の地獄沢、薬師沢、柳沢川もそれぞれの橋の部分が高くなっています。注意して見てください。

 山名駅の手前に山名八幡があります。神社の入り口に、馬庭念流の達人が割ったといいつたえられる”太刀割石”があります。
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昔からの住宅もあります。
右写真の住宅と雑草の生い茂った
川底との関係は、どうでしょうか。

天井川は教科書にも載ってました。
以前は大河川氾濫が重大問題だった時代ですから、川のことはしっかり勉強したのでしょうが、今は学習の重点が少し変わっているかもしれません。

なだらかな丘陵は、コナラなどの雑木林の林が続きます。



 






通りかかった上信電鉄の電車→
春は山桜(カスミザクラ)が咲きほこり、足元にはスミレなどの春の花々が顔をのぞかせる、里山の風景がひろがります。
ソメイヨシノの花が終わる頃、その桜吹雪と芽吹きの若々しい緑の中に、ソメイヨシノより少し遅めに咲く山桜の花がいっぱい、とても気持ちのいい風景がひろがります。















春にはおすすめの場所です。(桜の頃少しぼけた写真ですが、雰囲気を感じていただけましたら。)
  「ちょうど桜が満開」という時に行けるとは限らないことが、残念。
この場所、夏は暑苦しく汗でベタベタ、さらにヤブ蚊の襲来と、訪れるには、まったくおすすめできません。暑い中、ここで働いてこられた方々に、頭が下がります。
  落ち葉が足元でカサカサ音を立てる頃になると、また行ってみたい場所です。
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 高崎の観音山から続くこの丘陵には砂礫や泥っぽい地層がひろがります。

 泥っぽい地層                                    礫岩の地層
たしかに、雨風に削られたら、どんどん流されていきそうな地層に見えます。
それでも、人の感覚ではとても古い時代に思える900万年ほど昔の浅い海、河口に堆積したものです。この程度の古さでは、地層はそれほど固くはなれなのでしょう。
時々、植物が積もってできた亜炭がみつかり、掘って利用していたこともありました。


地層の時代関係は下の表で。
群馬県立自然史博物館で発表しているものです。
       「かぶらの里の露頭ガイド」 群馬県立自然史博物館・かぶら理科研究会 より










この表は、
下仁田から富岡、高崎と続く丘陵に分布している地層を現しています。

化石がたくさんみつかってきた地層でもあります















下仁田地域には、小幡(おばた)層・井戸沢層がみられ、この丘陵の連なりの地層の中では古い時代であることがわかります。虻田(あぶた)や鏑川にかかる只川(ただがわ)橋付近にみられ、1550万年前、1650万年前といった時代になります。有孔虫や貝、サメの歯などがみつかっています。

東に向かって、だんだん新しい時代の地層が分布し、いちばん東になる観音山や山名丘陵には浅い海や河口につもった板鼻層、いちばん新しい時代のものが見られます。だんだん海が浅くなり、陸になっていったことがわかります。
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天井川ができるには、人の活動が関わっていた・・・
 
この付近は古くから人の活動が盛んでした。古墳もたくさんあり、古い碑もあります。
燃料や建築材料が必要になるはずで、木をたくさん切ったこともあるでしょう。山肌がむき出しになると、大雨のたび、土砂も流れ出したことでしょう。高くなった川底・・堤防をもっと高く・・・・
自然のままなら、川底が高くなれば、川は流れを変えるのでしょうが、人が住んでいるところでは、土地を失いたくない人は、川のまわりを囲っていった・・・
   そこで、天井川がうまれた・・・天井川は人が作った人工地形ですね
 


この地域には上野三碑(こうづけさんぴ)という、7世紀~8世紀に作られた古い碑文が3カ所見られます。全国で見ても、めったにあるものではない話です。
←こんな看板も見かけました。
山名にあるのが「山の上の碑」、金井沢にあるのが「金井沢碑」、少し離れて多胡碑。
いちばん有名なのが多胡碑で、国の特別史跡、日本三古碑とされているというものです。
古くから人が住んで、きっと文化も発展していたのでしょう。


山の上の碑から金井沢碑にかけては雑木林の中を自然歩道がつくられています。途中には山城のあとがあったり、人の歴史も色濃い道です。良く整備された道には、万葉集のなかから群馬にちなんだ歌が選ばれ、石に刻まれ、いくつも置かれてあります。安山岩質の自然石は風景に良くなじんでいます。

はるか昔、中学時代に学んだことのある歌があって、何だかうれしくなりました。

ささの葉は 
  み山もさやに さやけども
我は妹(いも)おも
  わかれきぬれば

防人(さきもり)の歌で、妻との別れを嘆く歌です。
「さ」の言葉の繰り返しが美しい・・でも、昔はササをザザと発音していたという話もある・・ザザだったら、この歌も台無しだよな、などという話が、おもしろく思い起こされます。


7世紀、8世紀といった昔、この東国から九州まで、どうやって行ったのでしょうか・・・・・客死というより、行き帰りで、のたれ死んだ人も多かったのでは・・。歌が美しいだけに、いっそう、国家権力の残酷さを感じたものです。

左も万葉集の歌が刻んであります。
石碑には、美しい書で刻み(私には文字が読み取れなかったりしますが)、わきに 誰でも読める文字と歌の解説文が添えられています。



  山の上の碑です。上信電鉄西山名駅から1.1km


歴史を巡って散策するのがお好きな方も多いかと思います。この三碑は楽に行けそうと思えますが、一つ注意。
「山の上の碑」に行くには、階段を登らねばなりません。180段。写真の階段です。最近はステンレスの手すりがつけられています。
 ところでこの階段、碑のために作ったものではありません。観音札所巡りのためのものだったようです。
江戸中期、人々が旅をおぼえ、西国33カ所巡りまでは無理としても、地域で札所を作って巡ったりしたようです。北甘楽郡、多胡郡、緑野郡にもそんな札所が作られ、ここも札所に選ばれたようです。階段の上には古墳があり、そこにお堂が建てられていたようですが、古墳はあるものの、お堂は片鱗も見られず、札所の話も忘れ去られているとのことです。今は古墳に隣接する碑が、注目されているわけです。
 
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 天井川について調べてみました。

 普通の川より危険性が高い川とのことで、NHKがアンケート調査を行っています。全国に少なくとも240あるとの報告がありました。
場所は京都や滋賀など、関西に集中とのこと。やはり、古くから発展していた地域ということになります。
出雲の斐伊川・・これも、古く発展した地域で、地質はザラザラと崩れやすいカコウ岩で、砂鉄による製鉄、たたらが行われていたわけで、大量の砂礫が川に流れたはずです。
どこも、洪水に悩んだ地域だったことでしょう。
洪水の頻発で荒れ狂う川がヤマタノオロチの伝説をうみ(そういえば、支流が集まり本流となる川は、ヤマタノオロチそのものです)、たたら製法により作られた鉄が、オロチの尾から出てきた草薙の剣の伝説をうんだとか。

人の歴史をたくさん語りそうな天井川の話でした。
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 前回、白鷺について書き、白鷺の一つ、アマサギを見かけなかったことを書きました。
以前は飛来していたが「アマサギは2008年以来、記録がない」のだとか。野鳥の会で長年にわたる記録をまとめた報告書に載っていました。 2008年から・・・まるで気づかずにいました。
その他の鳥でも、みられなくなったもの、増えたものと、変化があるのですね。
どうして?     わからないことがたくさんありそうです。
 
 










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